昭和42年8月13日 夜の御理解
信心には修行がつきものだと、それは絶対のものですね。信心さして頂いて、修行をいとうては信心になりません。なにはなしかのこれは信心だけのことではありませんですね。
例えばどういう道を選ばして貰いましても、どういう勉強をさして頂きましても、例えば学校に行けば勉強という修行がある。例えば大工さんのおかげを頂きたいと思えば、やはり五年なり六年なりの血のにじむ様な修行がなされなければ一人前の大工になることは出来ません。だから一人前の大工になったからといって修行はいらんかと言えばそうではない。限りがない。所謂その名人と言われる大工さんになるためには、やはり修行がいつも伴っているように、信心だけのことではありませんね。
信心というのは、結局、人間が本当に幸せになさせて頂くためのもの。幸せの基礎。幸せの土台を頂くといのですから、そこに修行がないというのはおかしい。あるのが当たり前の事。それを特別この信心修行と申すわけでございますが、修行はどうでも必要であると。おかげを頂くためには、修行をさせてもらわにゃいけません。お徳を受けるためには、いよいよ修行が必要でございます。
今日は私はね。おかげを頂くためとか、又はお徳を受けるための修行というのでなくて、こういう様なための修行があるのですよ。
今日、私が午後の奉仕させて頂いている時にある方が夫婦で参ってきた。もうほんとに話を聞いておってもうあんたどん本当じゅつない事だなあと。それは、はがいい事であろうなあというようなお届けでございました。私はその事を神様にお願させて頂いておりましたらですね、痩せた鯉がですね、大きな口を開けて何かこう餌を求めるような状態を頂くのですよ。
それで私思ったのです。ここで鯉のお知らせを頂くときにはお徳と仰る。ならこの人たち夫婦がお徳を受けているとは思えんから、その家にあるというならば、お父さんはもう亡くなっておられませんけれども、お父さんが信心してしっかりとお徳を受けた。ところが、その徳をです、徳があの残るというがその徳があっても、それが段々痩せ細っていくわけなんです。その徳を子供が受け継いだ場合ですね。ですからどうでもその徳が、徳に対するところの餌がなからなければ、それが痩せ細ってしまう。
神様は折角その家に出来たお父さんの徳というものが、痩せさせてはならないというので、所謂息子達夫婦にしら真剣な、とある人間関係でございますけれども、人間関係でその修行を神様が求め給うて下さる。ね。ですから夫婦のものが、私どもの修行不足として、それを修行させて頂けばそれが徳があるのですから、けどもこれが少し徳痩せてきたその徳が鯉がですね。その後に残された修行によってその徳がやはり大きく徳の働きが出来る。私、思わせてもらいました。
修行させてもらうということは、なるほどただ一つのおかげを頂くためにも修行がいる。ましてお徳を受けよう。人徳、神徳を受けていこうというような願いを持たせていただいたら、いよいよその神徳の頂ける裏付けになる修行が願われる。修行が願われる。けれど親が残してくれているその修行が、それが言わば鯉なら鯉という魚がやせ細らせないために、餌がいる。その餌が、子供たち夫婦に課せられたところのいや、神様の求め給うところの修行だということを気付かせてもらいましてね。判らしてもらいましてね。
その事は申しませんでしたけれど、今度参ってきた時には、その事を本当に一つ、今日は苦しい事ばかり一杯でございましたから、あんたどんが苦しい苦しいと言いよるけれど、その事を神様としては、そこを満腹させるというか、所謂その鯉がいよいよ太って生き生きとしたあんたんとこの家に比礼を頂かせて頂くためのそれであったとするならば、その修行は実を言うたら有難い修行ということになる。徳の餌をあんたどんが作っている時であるということを、だから常日頃から信心修行をしっかりしておかなければならない。常日頃の信心が不足になっているという事を知らなければいけないよと言ってやったのでございますけれどもです、ね。
信心に修行はつきもの。信心だけではありません。もう何かを会得しょう。体得しょう、勉強しようとしても、それに修行が伴わないことはありません。まして人間が真実幸せになる土台は、あの世この世を通して真実の幸せになれるための信心においてはでございます、これに修行の伴わないはずがない。お互い、しっかり信心修行させてもらうと同時に、そこに難儀な問題、苦しい時には、神様が修行求め給うなと思うて、元気でその苦労に修行としての取り組みが出来なければならんと思います。どうぞ。